After Mahikari...真光を離れて


真光の祖師が受け取ったとする『啓示』について  ー その真偽 <その一>


岡田良一(光玉)が受け取ったとする『最初の啓 示』で最も多く引用される 箇所は、「起て。(1)光玉と名のれ。(2)手をかざせ。(3)厳しき世 となるべし。」でしょう。

「宗教に全くの素人」の者が、突然神に選ばれて、新たな名を与えられ、広大な『真理』を授けられ、人類救済のために立ち上がる ー なんともドラマチィックではありませんか。
『手をかざせ』と命じられても最初は何のことかわからず、戸惑っていたけど、具合の悪そうな犬(たまたま道ばたに横になって休んでいたのではなく)に思わず手を差し伸べたら、光輝くエネルギーがほとばしり出て、犬を包み込み、やがて犬は元気を取り戻して立ち上がり、歩き去って行った、それを見て、本人は驚いてしばし立ちすくむ、こんなシナリオはいかがでしょうか。

さて、(1)の『光玉』の名について

光玉は、昭和22年頃から世界救世教に属し、「手かざし(浄霊)」を実践し、支部長として給料をもらう職について、自分を「光玉先生」と呼ばせていた、という事実があります。(ネットのあちこちで指摘されています。)つまり、『光玉』という名は自分で考え出し、気に入っていたものと思われます。昭和34年に神から与えられた、新たな神名ではなかったということになります。

ついでにもう一つ。昭和34年の『最初の啓示』の 『光玉』のあと、昭和36年に『聖玉』という名を頂戴した、とあります。(『崇教真光30年史』平成元年ー1989ー発行 79頁)
ネットの「光玉の勲章はインチキ勲章」では、光玉は昭和33年岡田道一によって結成された「心霊医学会」の理事を務め、岡田道一の著書「霊癒の科学」に賛同者として、岡田聖玉の名を使った、とあります。
この本の発行年月日をご存知のかた、いらっしゃいませんか。初版は昭和31年(1956)です。この時すでに『聖玉』の名が使われていたのでしょうか。
後の版だったとしても、 昭和36年以前であれば、『聖玉』も『光玉』と同じく、自分で考え出したものと断定できます。昭和36年以後だったとしても、神事以外のことに気安く「神名」を使うというのもどうかと思われます。『30年史』(79頁)や『神向き讃詞解説』(昭和57年ー1982ー発 行、40頁)によると、光玉は『聖』という字を使うことを非常に恐ろしく感じた、とありますし、それならなおのことみだりに使うべき名ではないはずです。

(2)の「手をかざせ」について

「真光と犬の話」で、光玉が『犬に手をかざした』 のが昭和34年2月27 日の『最初の啓示』のすぐあと(イ)だったのか、それともそれ以前(ロ)だったのか、事実関係(事実があるとして)が混沌としていることを示しました。犬への手かざしと最初の手かざしは切り離せない関係にあります。ということは、最初の 手かざしが、『最初の啓示』の後(イ)だったのか、その前(ロ)だったのか、という疑問と同じことになります。
このように単純なことに疑問が生じること自体が実はおかしいのです。光玉から始まった話、そしてその流れを継ぐ教団の話に食い違いがあるということは、事実はどこにあるのか、どこまでが本当のことなのか、という問題であって、『解釈の違い』という問題ではありません。

光玉自身は(イ)としている記述があります。


昭和60年(1985)発行の『御対談集』280 −281頁 
たしか昭和34年の2月27日ですが、私の家の神様を拝んでいたら、大きな声で「光玉と名のれ。きびしき世となるべし」という声が聞こえたのです。娘は . . .(略). . .「神様が下さるんならもう少し念の入った尊いお名前をいただいたらどうなの」「そんなことを言うもんじゃない」というんで「光玉」と名のった。それから「手をかざして人の病気を治せ」と言われるでしょう。 . . . .(略). . .一週 間くらいは立ち上がる気は全然しなかった。ところがふと犬に手をかざしてみたら犬の病気が治っちゃった。
[注 ー『娘』というのは表向きは『養女』となっている恵珠のことだと思われる。]

また、1980年発行のデイヴィス著の『道場』にも、1959年の『最初の神示』の後、一番最初に手をかざしたのが犬だった、となっています。『犬だったら、手をかざしても、自分のことを笑わないだろう』ということからだそうです。

昭和34年の『最初の啓示』の後、おそるおそる犬に初めて「手をかざした」ら、犬が元気になった、 という方を採れば、『最初の啓示』を初めて耳にする人に、冒頭に記したようなドラマチックな印象を与えます。これが光玉の元々の意図だったと思われます。

『御対談集』280−281頁の光玉の話では、「光玉と名のれ。きびしき世となるべし」とまず言われ、『光玉』と名のった、その後(数時間後か、数日後か、数週間後か、不明ですが)、「手をかざして人の病気を治せ」と言われた、としています。 ここでは「手かざし」の目的が示されています。
昔の『御聖言』の(1)と(3)の間に『手をかざせ』がなかったのは、印刷の際のミスではなく、こんなところから来ているのではないでしょうか。こんなに大事な項目を入れ忘れてしまった、とも考えがたい。つまり、最初は(1)と(3)の間に(2)はなかったと考える方が、理にかなっています。多分口頭で付け加えていたのでしょう。『手をかざして人の病気を治せ』、それを短くして、『手をかざせ』を、後になって(1)と(3)との間に割り込ませた、という可能性が強く浮き上がってきます。
ところが『病気を治せ』が落ちて、『手をかざせ』 だけになると、前もってその知識がなければ、つまり、「宗教の素人」であれば、「何のことだ?」 となって不思議はないはずです。
昭和34年2月27日午前5時の『神示』は二つの部分になって『御聖言』 に載っていますが、『天地一切神の声』にも、次の『神を想う教え』にも、「手かざし=真光の業」については何の言及もありません。
にもかかわらず、『手をかざせ』との命令にうろたえる反面、それが何を意味するのか瞬時にわかったという、矛盾した面が出てきてしまいます。この矛盾は微妙で、見過ごしてしまいがちです。
というのも、私たちは初級研修の前に、手かざしによる『奇跡話』を聞いたり、手かざしを受けたりしますから、この『最初の啓示』を聞くときには、『手をかざせ』が何を意味するのか、すでに知っているので、疑問に感じないですんでしまうのです。

信者が集まって来るようになって、光玉が自分の『意図した』最初の話に固執する必要性が時にゆるんだのか、 またはどうしても事実がちらりと見え隠れするのか、『最初の啓示』の前に「手かざし」のことを知っていて、やっていたことを示す発言を残しているようです。
例 ー 真光全般(友乃會、文明教団、崇教真光、正法の會、等)へ の苦情板 934
「自分は、六つ乳房のあるご婦人を手かざしによって正常にして差し上げたことがある。このとき私は、自分が人を救うことの出来 る人間であるという確信をもった。
 神の啓示が下ったのはその直後である」と光玉氏は後年、親しい者にそう語っている。
光玉の言っていたこと自体に矛盾がある、教団はやがてどちらかを選択しなければならなくなった、どちらを採っても、矛盾は避けられない. . . . . . . . .
崇教真光は、1980年代の後半からは(ロ)を前面に押し出しています。 つまり、光玉の犬への手かざし=最初の手かざしは『最初の啓示』以前だったとしています。

光玉が世界救世教に所属していたことは、教団外ではある程度知られていたけれど、教団幹部で、それを知っていた者は、光玉の救世教の経歴がその主張(例ー『最初の啓示』、初めて万人に許されたとする『真光の業』)の信憑性に関わるので、公には言わなかったものと思われます。しかし、立教の頃の古い信者の中には、この光玉の経歴を知っていた者もいたようですし、教団としては、さすがに、光玉が救世教で「手かざし」をしていた事実を全面的に白紙化するわけにもいかず、元々に意図されたドラマチィッ ク性が減少しても、『最初の啓示』の以前に「手かざし」をしていた方を採り、それに付随して、『犬への手かざし』も『最初の啓示』の前に移した、と見ることができます。こちらの方が、救世教で「手かざし」をしていた事実に近くなるのではありますが。救世教所属のことは、『他宗教を勉強研究していた』と表現するにとどめました。

一にも二にも手かざし、と真光の業を強調され、情報統制されて、客観的思考力を弱められている内部の信者達は、教団の言う事なら、「あれ?」と思っても、必死になって受け入れますから、それで良かったのでしょう。

それにしても、光玉も自分の経歴から不都合な部分を抹消しているし、その主張にも矛盾がみられます。その流れを汲んで、どうやら崇教真光も事実を明かさずに、沈黙したり、言い換えたり、別のことに置き換えたり、全く変えたりしているようです。
『30年史』や『大聖主』での光玉の伝記にあたる記述は、客観的な事実が非常に少なくて、観念的で、事実関係があいまいなものが多いように見受けられます。真光信奉者に対してならそれでいいのでしょうが。 
もっとも信者に事実を隠さず、偽らずに、正確に、知らせたら、「真光の世界」は存続できなくなるかもしれませんね。「大宗教の秘密の信条ともいうべき『信者は倚らしむべし、知らしむべからず』の原則」(『御聖言』6頁)を、大宗教ではないけれど、真光も自ら行っていると言えるのではないでしょうか。ここではこれ以上触れないことにします。

さて、もう一度、崇教真光の記述を見てみましょう。

<ふとしたことから手をかざして、瀕死の犬を救った頃から、救い主は神霊の世界へ関心を深められ、借金返しのかたわら神の世界の勉強もされていました。> 『崇教真光30年史』 66頁

つまり、岡田は、終戦後、救世教と関係なく、一人で手かざしを発見、どの宗教にも属さず、神霊の世界のことに関心を持ち始め、自力で神の世界のことを勉強研究したことにしています。しかも一方で 『膨大な借金を返しながら』やったことになります。光玉の救世教所属を否定する「富田氏の手紙」は崇教真光のこの方針の表れでしょう。
崇教真光の『30年史』でのこの主張で、『真光の業』が救世教の浄霊と似ていても、それは「偶然」であり(教えでは『偶然はない』と言っているので、「別個のもの」と表現した方がいいのでしょうか)、教えにおける他宗教との類似点(ここでも特に救世教との類似点が多い)は、宗教に関心をもって勉強していたため、という説明の余地を作り、光玉は『宗教の素人』 との主張を維持できると考えているようです。そして、『最初の啓示』以前にも『啓示』はあった、と暗にほのめかす方向をとっています。
風呂の中で『上、上の方だよ』とか、自殺を考えた時『お前の罪えが消えるぞ』とか、『声なき声』があったことにしています。五日間の人事不省中に見たとする光玉の『霊夢』も、『啓示』の一つに数える向きもあるようです。そのうちに『手をかざせ』というのも、この『声なき声』の仲間入りするだろうと思われます。

.......火の鳥phoenix3000
Japanese
Last updated : 28 April 2007