After Mahikari...真光を離れて

真光の祖師が受け取ったとする『最初の啓示』につ いてーその真偽 <その十>『最初の啓示』の別版



真光の祖師が受け取ったとする『最初の啓示』についてーその真偽 <その十>『最初の啓示』の別版 


崇教真光の初級テキスト(発行年月日は示されていません。1980年代?)p2に次の記述があることをご存知でしょうか。

【昭和34年2月27日早暁、主神より祖師に直接賜った御神示は、「真光のまくばり、霊文明の暁を告げよ、光の玉の役をなせ、光玉と名のれ」でありまして、敢然ス直に決起されたのです。】


『最初の啓示』の別版というわけです。

「真光のまくばり」というのは「手をかざせ」の代用と思われますが、ちょっと『御聖言』(1973年版)をのぞいてみましょう。

  • 昭和34年
  • 2月27日付けの『天地一切神の声』にも『神を想う教え』にも「真光」という言葉は出て来ません。
  • 4月3日付けの『クスリ』(p38)で、「真の光の業」として初めて出て来ます。
  • 5月30日付けの『選神の義』(p87)に「真光」と出て来るようになりますが、『まびかり』と振り仮名が振ってあります。
  • 8月15日付けの『毒気消除の世』(p107)に「マコト光」が出て来ます。
  • 昭和36年
  • 5月10日付けの『罪と穢れの本義』(p212)で「真光」と書いて、『まひかり』と読ませています。

まのひかり(真の光)ー>まびかり(真光)ー>マコト光 ー>まひかり(真光)、と変化して行きます。岡田光玉(良一)の『神』は、一方で「天の時至れるなり」と断言しているのに、一番ふさわしい『言葉』を探していたかのようです。

それでは、この件に他の事柄も絡めて見てみましょう。

  • 昭和34年
  • 2月27日付けで受け取ったとする『最初の啓示』である、『天地一切神の声』にも『神を想う教え』にも「真光」という言葉は出て来ません。
  • 4月3日付けで『御聖言』に「真の光(まのひかり)」が初登場。
  • 5月30日付けで『御聖言』に「真光(まびかり)」と出て来ます。
  • 6月19日研修会開催〔『大聖主』p82〕〔注1〕
  • 8月15日付けで『御聖言』に「マコト光」が登場。
  • 8月28日L・H陽光子友乃会発足。この名称に「真光」という言葉は使われていません。
  • 昭和35年
  • 6月に行われたという天杖には「真光」という言葉は出て来ません。出て来たとされるのは「崇盟五道のみ役」と「ヨスカのみ働きなすもの」です。〔崇教真光初級研修テキストp2〕〔注2〕
  • 昭和36年
  • 2月以後5月迄に天杖で出たとする4つの神示のうち後半の二つに「真光」が出て来ます。
    「嵐にそなえて真光の業積み盛んなるものなり」「真光によりて真が手組なせ」〔崇教真光初級研修テキストp3〕〔注3〕
  • 5月10日付けで『御聖言』に「真光(まひかり)」が登場します。
  • 8月ーー神示で「真光呂号」を与えられたとしています。〔『崇教真光30年史』年表p272 〕〔注4〕

  • 昭和37年
  • 3月25日付けの真の道の機関誌『聖和』に「ヨ宮真光呂斎主」として岡田光玉の名が現れます。〔注5〕
  • 5月31日真光新報協賛会設立〔注6〕
  • 7月ーー新聞型『真光』発刊開始
  • 教団名を世界真光文明教団と改称〔「世界真光文明教団・崇教真光の誤りを破す」より〕

  • 昭和38年
  • 宗教法人世界真光文明教団として法人登録〔注7〕


「まひかり」という言葉は、1959年の『最初の啓示』の時点では無く、多分真の道の神示にヒントを受けながら、光玉の頭の中で次第に形成され、定着していったもののようです。しかし、この別版には最初からあったように示されています。最初は無かったものが最初からあったようにいつの間にか提示される、この真光の欺瞞性が見られるのは、この別版だけではありません。

ある人物・団体が、その人物・団体にとって重要な出来事を話すときに、前回話した時の内容と今回と食い違っているところがあれば、「おや?」と思うのがまともな感覚です。その正常な感覚を、真光のなかにいると、真光の教祖・教え主・教団幹部の言うことには当てはめない、というのはある種のマインド・セットが信者の頭の中に出来上がっているからでしょう。

実は私もそうでした。私も組み手だったとき、この別版を見ているはずなのです。変だなと一瞬思っても、「光の玉の役をなせ」以外は全部真光の中では頻繁に聞かれる言葉(「真光」と「まくばり」の組み合わせはそれほど頻繁でなくても、二つとも組み手にとって実になじみのある言葉です)でしたから、問題として意識しませんでした。光玉・教団の言うことは無条件で一応受け入れるという、真光のマインド・セットのなかにはまっていたのです。そこから出て初めて、<こんなことは変だ>と明瞭に認識できるようになりました。光玉が主張するのとは逆に、真光から離れて、徐々に『迷妄の雲』が取り払われて来て、山は山としてその姿を現し始めたのです。

「霊文明の暁」という言葉は『天地一切神の声』にも、同じ日付を持つ、次の『神を想う教え』にもありません。昭和38年8月15日付けの『四つアの世と七つの燈台の火』のなかに『霊文明の世への暁』との表現を見つけました。『祈言集』の「神組み手の想念七」の中に「...霊文明の曙ぞ、十字文明、新真聖紀への暁ぞ」と、『霊文明の曙』で登場します。『大聖主』(昭和58年1983年発行)に『霊文明の曙』という題の付いた箇所があり、昭和42年2月19日に『霊文明の曙』という演題で光玉が講話した、とあり、内容が紹介されています。この『霊文明の曙』という言葉を説明している箇所を二つ引用しましょう。

【『霊文明の曙』という言葉は、昭和34年来、私が宗教界に提唱してまいりました重大事の一つでございます。....】ーー『大聖主』p141

【宗教を超越して、人類は、唯物文明から、霊の文明へ切り換えをしなければならない、そういう時期に来てしまった、ということです。これを、私は、『霊文明の曙』といっています。】ーー『大聖主』 p148


これは『神の言葉』というより、光玉自身の言葉として提示されています。言葉の響きが気に入って使うようになったと推測されます。それをこの『最初の啓示』の別版の一部にしています。

『光玉』という名については「真光の祖師が受け取ったとする『最初の啓示』について」<その一、その二>を参照して下さい。『光の玉』については、<その三>、特に救世教で岡田茂吉に関して『光の玉』という言葉が使われていることを参照して下さい。


〔注1〕『崇教真光30年史』(平成元年1989年発行)年表には第一回初級真光研修会とありますが、これも後でこの最初の研修会を『第一回初級真光研修会』と呼ぶようになったのでしょう。

〔注2〕天杖を行ったのは真の道教団キの宮だったということが判明しているとのことです。(「暴かれた真光日本語版」2003年4月30日注及び資料<ここ>を参照) 真の道は新興宗教の教団であって、光玉及び教団の主張するところの『神道界の方、正統を任じている、神道界の一部の方々』ではありません。はっきり言ってこれは嘘です。 『L・H陽光子友の会とは特別関係のなかった神道界の一部の方々』(中級真光研修テキストp3)も二重の嘘です。というのは、L・H陽光子友の会と真の道とを結んでいるものがあるからです。岡田光玉(良一)です。

『崇教真光30年史』p84には「立教以来教団の教えやニュースは宗教新聞『聖和』で報道されていました」とあります。(『大聖主』p91からの引用は『最初の啓示』<その九>〔注6〕参照) この宗教新聞「聖和」というのは真の道の機関誌名です。つまり、真の道と光玉とは立教時にすでに関係があったということになります。L・H陽光子友の会は光玉が設立した会です。にもかかわらず、<L・H 陽光子友の会とは特別関係がなかった>と表現しているのです。L・H陽光子友の会の普通の会員は光玉と真の道との関係を知らされていなかったということは充分あり得ます。<我が友の会とは関係のない神道界の一部の方々>と光玉から説明されて、そのまま信じ込んだことでしょう。今でも『真の道=正統を任じている、神道界の一部の方々』との光玉・教団の説明を事実であると思い込まされてしまった信者達は、現実世界の事実を聞いてもなかなか受け入れられないようです。信者が教団の言うことを真に受けて、「光玉に降りた神示は、関係のない、しかも疑いを持った団体の神示によって裏付けされたのだ、これは客観的な出来事である」と、いとも簡単に思い込まされてしまうというのもちょっと怖い話です。

〔注3〕これら一つ一つに明確な日付を示さないのも変です。真光が天杖の神示を紹介するとき、あるものには特定の日が明記してあり、他のものは日付が曖昧か日付がない、というバラツキがあります。

〔注4〕『崇教真光30年史』p79に【御神名についても神道界の一部の方によって神伺いがなされましたが、そのときの御神示には、「真光呂号」と「賜う 神名 聖玉」...と出され...】とあります。神名聖玉というのはわかりますが、さて、「真光呂号って何のことだ?」と思ったことがありませんか。『30年史』p79に【...「呂」は神の子の住む所であると共に、祭りをする場。即ち神祭りの場のことです。】とあるので、どうやら、場所のことのようだ、と想像するぐらいです。具体的に何処の場所なのか明確な言及がありません。『神向き讃詞解説』p422には光玉自身の説明があります。
 【東京羽根木の元み魂座の家の名前をおつけするときに、神様にお伺いをたてましたところ、「真光呂」という名を戴きました。】
ここで光玉は<神に伺いをたてた>と言っていますから、真の道の天杖で『神伺い』をしたことを言っているのでしょう。『崇教真光30年史』や研修用テキストでもこの「真光呂」は天杖の神示で出たことの一つに含まれています。ただし、『神向き讃詞解説』での光玉の話では、神への質問の内容が「羽根木の家の名について」と特定されているのに対し、『30年史』や 『テキスト』では「神名について」の質問であり、「神名聖玉」のほうは質問への答えになりますが、「真光呂号」のほうは唐突な感じがしてしまいます。

『30年史』では昭和36年8月にこの呂号を与えられたとなっていますが、東京羽根木に元み魂座が遷座(『30年史』p83の表現)・完成(『30年史』p83、272)・創設(『30年史』p162/『大聖主』p89)されたのは昭和37年2月となっています。この「二階建ての普通の日本家屋」(『30年史』p83)は、光玉の「お話」に引きずり込まれた人がその話を信じ込んで寄付したものなのでしょうか。それとも大量の奉納か援助金があって買った家なのでしょうか。そういった現実の事実の情報には触れない傾向にあるのが真光です。この家が手に入って、その家の名をどうしたらいいか、天杖で尋ねたら(神に尋ねるほどのこととも思えないのですが)、「真光呂」との答えがあった、そして、半年後にそこに移った、ということなのでしょうか。それとも、天杖で「神名聖玉」と一緒に出た「真光呂号」という言葉を光玉が羽根木の家の名にこじつけたのでしょうか。

〔注5〕昭和37年3月15日付け「真の道協会」発行の機関誌「聖和」第2面に「ヨ宮真光呂斎主 岡田光玉先生」と出ているとのことです。「暴かれた真光日本語版」2003年4月30日注及び資料 <ここ>を参照して下さい。

〔注6〕【機関誌発行に当たって、本部には資金がない。師は、私財を投入された。そのことを聞いて、組み手有志が、真光新報協賛会を設定して、経済的に援助した。】ー『大聖主』p92

〔注7〕『大聖主』にはこの件の記述は見当たりません。『30年史』には「宗教法人認証」という題のついた箇所があり、次の記述があります。

【昭和38年11月5日、教団は宗教法人として法制化が認証され、同日正式に発進しました。】ーー『崇教真光30年史』p87

しかしながら、光玉が設立した教団の名称である「世界真光文明教団」の名は、この箇所のみならず、この本のどこにも出て来ません。ただし、古い写真のなかには世界真光文明教団の「神紋」が見られますし、昭和49年7月13日の「みたまおくりの祭」の写真には世界真光文明教団の神紋と名(名前の方は虫メガネが必要でしょう)が見られます。
  
世界真光文明教団のホームページには【昭和38年11月19日、L・H陽光子友乃会は「宗教法人世界真光文明教団」として法人登録】とあります。

<続く>


ーー火の鳥Phoenix3000
Japanese
Last updated : 28 April 2007