After Mahikari...真光を離れて


真光の世界とは ー その2



モウシェ、イエス、釈尊は日系であり、日本で(古)神道を勉強し、それぞれの国へ帰って布教、日本に戻って来て、亡くなり、日本に墓がある、と光玉は説きました。その根拠は何かー古文献に書かれている、というものです。光玉の話だけからでは、その『古文献』とやらを確かめようがありません。ここでも、我こそ本当のことを言っているのだ、我こそ、神理(=真理の当て字。光玉が使う、一種の言葉遊び)の絶対の権威者である、自分の言うことに合わないものはみんな嘘、との自称『神の地上代行者』光玉の勢いに押されて、信者はその真偽に関して思考が働かなくなるようです。

手島氏やA.T.氏が、青森の『キリストの墓』を訪れたのは、光玉が言ったんだから、本当である、との信念があったからこそでしょう。

手島泰六の場合ーー

『真光』誌 昭和44年12月号P18−24 紀 行記 戸来を尋ねて聖地キリスト村
東京青年隊々長手島泰六(岡田コウヤ代理)  (国学院大学四年)

私が、昨年に続いて今年も又、青森県十和田湖近辺にある戸来(ヘライ)村を訪れた理由は、過去、教え主様より中級、上級研修会において、「イエス・キリストはゴルゴタの丘で十字架を逃れ、イスラエルを脱出して東方の果て日本に上陸し、青森県三戸郡戸来村でその一生を終えられた」という歴史上の真実を知る事が出来たからである。

昨年、その目的を全て果たす事の出来なかった私は、今年も大学が夏期休暇にはいると居ても立ってもいられず、再度、東北へ旅立ったのである。 (「ここが変!真光の本!」ー 181)

A.T.氏の場合ーー熱心な真光幹部である氏の著書「探し求めた答えはここに」(1988年版)の第九章に、青森の『キリストの墓』のそばにある案内板の内容が紹介されています。
「キリストは21歳で日本に最初に渡来し、十年程古神道を学んだ末、それをユダヤで教えるため帰国した。ところがユダヤの政府はこれに反対し、彼を十字架刑に処することに決定した。しかしイエスの弟イスキリが進んで身代わりとなって死んだ。キリストは37歳で、再度日本の地を踏み、日本に居を定め、百六歳で没した。...」そして、氏は「キリストは十字架上で死んだのではなく、日本で安らかに死んだのです。」と言い、彼自身も青森の『キリストの墓』と言われている所を2度訪れ、自分が読んだことがすべて正しいと確信した、と言っています。(英語版「暴かれた真光」より「キリストは日本に埋葬されているのか」及び「キャンベラ・タイムズ13/3/97ー読者の投書」参照)

ところが、今は光玉のこの教えが伏せられているようです。

[「イエス・キリストの墓は日本の青森にある」「真光の業を天皇家にお返しする」等、ネットに中傷ネタとして書かれている。俺みたいなピュアな心の持ち主は騙されるところでした。ーー「真光被害報告掲示版」−4980]といったような信者の書き込みがありました。両者とも以前まことしやかに真光内部で言われていたことです。にもかかわらず、この信者は、そのようなことは批判派が作った話であり、信者を騙そうとしているのだ、との言い分です。自分が『知らない』『聞いたことがない』から、これらのことは批判派の作り話だと決め込んでしまったのでしょうか。それとも、知っていても知らないふりして、批判派が『嘘』を言っているように見せかけたかったのでしょうか。いずれにしても、真光の信者が、真光を擁護しようとして、元々真光の教えの一部(しかも重要な項目)であったものを、批判派の『作り話』や『嘘』にしてしまう、というのも実に皮肉なことです。

この、イエス・キリストに関する教えの取り扱いの変化の例が、他にも見られます。昭和44年(19 69)に熱い想いで、光玉より『歴史上の真実』を教えられたと述べた手島泰六氏(現教え主代理)も36年後の平成17年(2005)にはこのことを曖昧にして、ぼやかしています。


平成17年6月号P28・・・それ故、イエス・キリストは十字架から逃れていたのではないか。イエスの身代わりとなって死んだのは弟ではなかったかともいわれています。死と復活の真相は今も謎に包まれています。・・・

ーーー過去に真光誌に載せているくせに今は謎に置き換えている。本当に教えをコロコロと変える教団。181の真光誌の抜粋と比べると明らか。自分達が残した御教えも忘れるなんて... (「ここが変!真光の本!」ー187)

ーーーイエスの話、五色人の話などは、今では絶版になった『神向き讃詞解説』に克明に書いてあります。...それを今さら「謎に包まれています・・・」とは、なんといい加減な神向き讃詞解説だったかという証明です。・・・ ま、パクリ元の本が偽本だと暴かれたので、それをパクッた本が絶版になっても当然ですが。・・・・ 神向き讃詞解説の大半は、今日では偽本として有名 な「竹内文書」のパクリ。・・
(「ここが変!真光の本!」−18 8)

  
もう一つ、奇妙な現象があります。上記の「探し求めた答えはここに」の第九章が後の版でまるごと削除されたことです。A.T.氏は実にはっきりとした確信をもって、「イエスは日本に二度来ている、十字架にかかって死んだのではない、日本で天寿を全うして亡くなっている」等光玉の教えと一致する説を述べたのに、後の版(1990)ではその章を完全に削除し、テレビでの取材(1997年10月28日)では、「イエスが日本に埋葬されているかどうか、わからない」と答えています。日本での上級研修を受けて、こういう教えを聞き、かつて青森の『キリストの墓』を訪問した、教団の幹部(複数)さえ、その後は、「そのようなことは特に真光の教えではない」と言ってはばからないようです。(英語版「暴かれた真光ーキリストは日本に埋葬されているのか」参照)

ということは、光玉の教えは神から明かされた、『神理』の教えであるはずなのに、教団は、この教えを正直に伝えるのではなく、内外の人々から隠してしまい、少なくとも表向きは『なかったことにしてしまった』と言えます。あまりにも奇異で、根拠がなく、公にしたのでは真光自体が世間に受け入れてもらえなくなる、との懸念からでしょうか。このような教えは中・上級研修の内容であり、多額のお金を出して研修を受ける者以外は知る必要がないのだ、と言い訳しているのでしょうか。それとも、中・上級研修内容からも削除したのでしょうか。

真光は人類教であると教団は謳い、真光を始めた光玉を『救い主様』と呼んで讃え、『人類の(永遠の)師』『人類の救世主』との称号を被せ、彼の言ったことは金口の説法であるとしていたのに、彼の力説したところの『本当の話』を、胸を張って公表することをしなくなったという変遷、しかも、いつの間にか隠して、『教え主代理』や上級幹部さえ、言葉を濁したり、最初からそんなものはなかったかのように装っているということーーこれらは、光玉の説いた教えにどの程度の信憑性があるのか、また、教団がどんな体質をもっているのか、を時の流れが如実に示す事例の一つです。光玉自身が言ったことの記録である『神向き讃詞解説』が絶版になって、ほとんどの人の目に触れることがなく、古い真光誌とともに、過去の都合の悪い教えは忘れ去られていくことを教団は期待しているのでしょう。『教え主が絶対』の世界なので、現時点で教団が言っていることが『正しい』ことになります。光玉の教えを削れば、『今はそんなこと言ってない』となり、『そんな教えはない』ことにもなるし、教えを修正すれば、『御経綸の変化』とし、それでは言い訳になりそうもないことは、黙秘して、やがて修正版が信者に浸透するのを待てばよいことになります。それに、教団の言うことに反する、どんな現実の事実が出て来ても、『正法の道から引き離そうとする、邪神・邪霊の仕業』にできるのです。

ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」を上回るような「イエス・キリスト」に関する光玉の説(より正確に言えば、『竹内文書』の説)ですが、世界と日本の「歴史」に関しても光玉は「日本が世界の中心である」との大前提のもとに、その教えを展開しました。この教えも今、影を潜めているのでしょうか。それとも、現実の世界とは無関係に、「日本が霊の元つ国である」という謳い文句だけが、大手を振って歩いている状態なのでしょうか。ここで、「歴史」に関する前回の光玉の言葉の引用に、さらに下記のものを付け加えておきましょう。

すなわち、私が立教以来叫び続けて参りました。究極は何か「歴史の迷信」歴史から生じてくるところの人類歴史の迷信・・・・・とんでもない、いいかげんな偽りの歴史を各国が教えてきた。本家本元の日本がそうである。ーー真光誌189(昭和53年6月号)P16
 
人類がこれまでに蓄積してきた歴史の記録でさえ『嘘八百』『迷信である』と断言して退けて、代わりに、一層不確かなものや荒唐無稽なものを『本当である』と光玉は宣言したことになります。

自分の説くことは、自分がでっち上げたのではなく、神から教えられたもの、神に導かれて知ったことである、との光玉の言い分でした。その教えのあちこちが、事実に合わなかったり、事実無根である、とわかってきて、教団さえも引っ込めて闇に葬り去ろうとしている部分がそこここに出て来た、ということは、何を意味するのでしょうか。

こうして見てくると、実際にはどちらが本当で、どちらが嘘八百なのでしょうか。誰が誰を騙しているのでしょうか。証拠湮滅を図っているのは誰なのでしょうか。『迷蒙の雲』を発生させて、視界を限定しているのはどこの、誰なのでしょうか。

[『み教え』=創作神話要は、史実と伝説と妄想を交えた作り話。へえ~と聞き流す程度ならいいけど、こんなのを芯から信じて生きたらアホになる.]という書き込みがありました。

天地創造神から、宗教に素人である自分に、特別に『真光の業』が与えられた、と主張しているのに、その光玉自身は世界救世教の幹部まで勤め、浄霊の「手かざし」をしていました。
全てを浄める神の光だと謳う、『真光の業』と称するものも、光玉及び教団の主張とはどうやら合致しないもののようです。いや、『真光の業』は本物だ、だから、真光の教えも本当だ/本当なのだろう、と信じ込んでいる人々は、このような真光の虚構の世界にどっぷり浸かっていることになります。そうなると、何が事実で、何が嘘で、何が架空であるのか、そういったことの概念や、その基準が狂ってくるようです。

真光の世界では、嘘、迷信、おとぎ話、怪しい話が 『本当』『事実』になり、本当のこと、歴史的科学的事実が『嘘』『空想』『妄想』になりもするし、客観的なものと主観的なもの、常識と非常識とが入れ替わる、といった、奇妙で異常な世界と言えます。『み教え』自体の矛盾や現実との矛盾は、人知を超えているということで、いとも簡単にまかり通るようです。都合が悪いとわかった『教え』は、いつの間にか修正し、最初からそうだったように見せかけたり、「なかった」ことにしたり。そして、現実の出来事は、光玉及び教団(そして個々の信者)に都合の良いものだけとって、都合良く解釈していきます。実際には教団や信者達とは何の関係もない出来事でも、その主張に都合の良い物事や歓迎すべき出来事ならば、主の神のみ力によるものだ、あるいは、誰それが手かざししたからだ、と真光の貢献にしてしまいます。他方、現実の世界での天災人災は『曇りきった人類のせい』とか、『神の怒りの型示し』にしてしまい、信者の恐怖心を煽るのに利用します。

   ーー火の鳥phoenix3000
Japanese
Last updated : 28 April 2007